平敷屋エイサーとは

勝連半島の先端に位置する平敷屋に伝わる「平敷屋エイサー」。
沖縄に数多くあるエイサーのなかでも平敷屋エイサーは、多くの人々の注目を集め、県内外様々な媒体で取り上げて頂いております。

毎年旧盆の時期には、この「平敷屋エイサー」をひと目見ようと、県内外から多くの人々に平敷屋に訪れて頂いております。
特徴としては、沖縄のエイサーの多くが戦後、見せることに力を入れて振付けや衣装が派手になっていく中で、 平敷屋のエイサーは伝統を重んじ、古くからの型を守り続けているところにあると思います。

平敷屋エイサーの歴史

衣装も白の襦袢(じゅばん)に黒染の絣(かすり)、黒帯、蝶結びの白鉢巻、袖丈を上げる白タオルと簡素で、足元は裸足です。
これは僧侶あるいは野良仕事の農民の姿を表したものだと伝えられています。
沖縄の伝統芸能のひとつであるエイサーの原型ともいわれる 200年以上の歴史あるといわれている「平敷屋エイサー」は、最初の頃の踊りがどのようなものだったかは定かではありませんが、明治の終わりごろまではごく素朴な踊りだったようです。
現在、平敷屋に伝わるエイサーは、明治37年(1904)にエイサーの振興に熱心だった当時の平敷屋青年会の会長らが、沖縄一と評判の高かった名護市世富慶(ようけ)地区のエイサーを見学に行き、それを参考に研究を重ねて振付けたものと伝えられています。 平敷屋エイサーは、東西二組に分かれています。 「東のエイサーは男性的な踊りで力強く、西のエイサーは女性的な踊りでしなやか」と言われている。 約90年の歴史を持つ平敷屋エイサーは、二百年ほど昔から地元のエイサーと、 1904年(明治37年)に当時評判の高かった名護エイサーを取り入れたと言われています。 紺地の衣装に素足で踊るパーランクー主体のエイサーは、長年受け継がれた伝統芸能の深さを感じさせます。