平敷屋大蛸綱引き
平敷屋大蛸綱引き
沖縄の伝統芸能のひとつであるエイサーの原型ともいわれる平敷屋大蛸綱引き
平敷屋の綱は他所の綱と異なり 「俗に贈綱」といわれている。
それはカニチ、胴(本綱胴からハ 本の手綱(ていんな)が出て、合も 蛸に似ていることからそう呼ばれ ている。長さはカニチハ米、本綱 十二米、手綱十五米計三十五米の大蛸綱である。
さてこの蛸綱は一体何時頃から引 かれるようになったのだろうか、定説はないが、古老たちの語るところによると 「明治の末頃まで一本綱を引いていた。蛸綱はその後から引くようになった。」 川上亀郎一故人一さん、仲本亀郎一故人一さんらの談話があった。
また前川カメ さんは蛸綱の由来について決定的とも取れるお話をしておられた。
平敷屋の綱引きは元々他しま一他字一と同様の一本の長綱を引いていたが、今日のように蛸綱を引くようになったのは、昔、形灯のお爺さん一新垣藩善氏の祖父ーと形り糾、六、のお爺さん一新里信一氏の祖父で益平さん)のお二人が若いころ、
西原間切の小那覇一現在西原町字小那覇一に出稼ぎに行き、幸運にも小那覇の綱引きを見る機会に恵まれた。 どこの綱引きも「綱引きガーエー」とはよくいったもので綱引き場はドラや鉦鼓、太鼓が打ち鳴らされ、騒然たる光景であった。
双方の屈強な若者たちが忙しく立ち働いており、見物しているこちらまで緊張がたかまり鼓動が一段と高鳴った・いよいよ綱が引かれる気配であるがどうも様子 がおかしい、綱と綱のカ二チに「カ二チ棒」を通し双方が直線的に引き合うもの、
という先入観で見ていた二人にはものの見事に裏切られ、呆気に取られるば かりだった。 というのもここの綱引きは腸から分かれた数本の手綱を引き合う風変わりな綱引 きであった。応捺一杯に広がった手綱が生き物のように波打ち実に壮観であった。
その時"これだ”と思ったそうである。 しま(平敷屋)のようにせまい広場には正に打って付けの綱だと考えたからである。その後小那覇から妻女を姿った茂太(もったい)さんは度々小那覇に出向いたそうだ。そんなことから幾度か小那覇の綱引きをみているが、
いつも感心することばかりだったという。
その後ある年の村の綱引き月に村の有志を前にして小那覇の綱引きの模様につい て一部始終を話したところ「それは大変参考になる有意義な話」として取り上げ られ、その話を元にテストケースとして愈々蛸綱作りに取り組むことになった。
綱打現場には茂太さん、新里益平さんらが付き切りで指導に当った。勘と記憶の よい益平さんは胸から手綱を取り付ける方法までくわしく指導したという。 こうして二人の指導助一言のもと更に綱に工夫を加え立派な贈綱ができあがった。
一抹の不安を抱きながらの綱引きであったが大成功を収め、名実ともに歴史的な平敷屋大蛸綱として誕生をみたのである。と白寿を迎えられた前川さんは 誇らしげに語られた。
平敷屋大蛸綱引きとその起源
平敷屋の綱は他所の綱と異なり 「俗に贈綱」といわれている。 それはカニチ、胴(本綱胴からハ 本の手綱(ていんな)が出て、合も 蛸に似ていることからそう呼ばれ ている。長さはカニチハ米、本綱 十二米、手綱十五米計三十五米の大蛸綱である。
さてこの蛸綱は一体何時頃から引 かれるようになったのだろうか、定説はないが、古老たちの語るところによると 「明治の末頃まで一本綱を引いていた。蛸綱はその後から引くようになった。」 川上亀郎一故人一さん、仲本亀郎一故人一さんらの談話があった。
また前川カメ さんは蛸綱の由来について決定的とも取れるお話をしておられた。
平敷屋の綱引きは元々他しま一他字一と同様の一本の長綱を引いていたが、今日のように蛸綱を引くようになったのは、昔、形灯のお爺さん一新垣藩善氏の祖父ーと形り糾、六、のお爺さん一新里信一氏の祖父で益平さん)のお二人が若いころ、
西原間切の小那覇一現在西原町字小那覇一に出稼ぎに行き、幸運にも小那覇の綱引きを見る機会に恵まれた。 どこの綱引きも「綱引きガーエー」とはよくいったもので綱引き場はドラや鉦鼓、太鼓が打ち鳴らされ、騒然たる光景であった。
双方の屈強な若者たちが忙しく立ち働いており、見物しているこちらまで緊張がたかまり鼓動が一段と高鳴った・いよいよ綱が引かれる気配であるがどうも様子 がおかしい、綱と綱のカ二チに「カ二チ棒」を通し双方が直線的に引き合うもの、
という先入観で見ていた二人にはものの見事に裏切られ、呆気に取られるば かりだった。 というのもここの綱引きは腸から分かれた数本の手綱を引き合う風変わりな綱引 きであった。応捺一杯に広がった手綱が生き物のように波打ち実に壮観であった。
その時"これだ”と思ったそうである。 しま(平敷屋)のようにせまい広場には正に打って付けの綱だと考えたからである。その後小那覇から妻女を姿った茂太(もったい)さんは度々小那覇に出向いたそうだ。そんなことから幾度か小那覇の綱引きをみているが、
いつも感心することばかりだったという。
その後ある年の村の綱引き月に村の有志を前にして小那覇の綱引きの模様につい て一部始終を話したところ「それは大変参考になる有意義な話」として取り上げ られ、その話を元にテストケースとして愈々蛸綱作りに取り組むことになった。
綱打現場には茂太さん、新里益平さんらが付き切りで指導に当った。勘と記憶の よい益平さんは胸から手綱を取り付ける方法までくわしく指導したという。 こうして二人の指導助一言のもと更に綱に工夫を加え立派な贈綱ができあがった。
一抹の不安を抱きながらの綱引きであったが大成功を収め、名実ともに歴史的な平敷屋大蛸綱として誕生をみたのである。と白寿を迎えられた前川さんは 誇らしげに語られた。
綱打ち
大綱を締うことを綱打(ちなう)っんといい、綱引き季節が追ってくると村内はざわめいてくる。 いよいよ旧暦六月十三日、青年団の触太鼓が打鳴らされ、「村の十五歳から十五歳までの男子は明日綱造りの夫一労役に出よ」という触れである。
明くる日は早朝から譲わら)の仕入れのため、西束の青年団は大わらはである。 先を競って近郊の村々平安名、屋慶名、南風原あるいは遠く目一志川まで奔走 した。
仕入れた藁は直ちに綱打ち現場に搬入された。西は馬場(うまうい)に、東は旧番 所跡西側の徳平のウスクの下一現拝所前の道路を北へ突き当たり一に藻がうず たかく積まれた。
その現場では先輩たちが去年の古綱をとり繕いながら墓の到着を待っていた。 現場からは軽快な鉦鼓の音や銅鍵鉦、太鼓の音が響いていた。
その音に肝わくわくして家で暢然(のんびり食事もしておれず飛び出してくるも の、現場でないと落ちっかないもの、とにかく綱造り現場は一種独得の雰囲気。 を醸し出し、心は浮きうきして楽しい中にも緊張が賑(みなぎり)り村は綱一色の風物に包まれていた。
さて持ち込まれた凛は先ず枯れ葉を取り除き、藁シベを取り揃えることから始 まる。 この作業程人海戦術の効果が大きいものはない。
若い衆の手作業は瞬く間に藁シベの山を築き(戦後この作業は主として女性や長寿クラブ会員の御協力を仰いでいる一綱の原料はできあがった。その時点で屈強の青年たちが数力所に分か れて「綱打ち」の準備にとりかかる。
先ず高さ約二、五米の大木の枝か櫓を組んでそこへ細縄を渡して垂れさげ、そ の下の三方に原料の藁束を持ち込んで綱打の準備は整う。
いよいよ綱打が始まる。威勢の良い若者三人が垂れ下がった縄を中心にして内側に向い、綱を解いて三等分し、ねじ それに持ち込まれた足下の藁を少量加え て各々十分に振り脇を固めて捻りながら左手に持ちかえ、それを左の者の前に押し出す。
左の者は右手でそれを受け取り、捻るようにして左手に持ちかえながらそれを左に押し出す。 三人が同様、流れるような動作を 延々と繰り返すのである。それに は二人の呼吸がピッタリ合わなけ ればならず必然的に威勢のよい掛 け声が発せられ、調和が生まれた。
それはも風車が回るようにスピ ーディーである。
藁が短くなると継ぎ足し、同様の 動作を繰りかえす。基綱の太さに達すると均等に約いあげる。こうして打ち上 がった綱は硬く引き締まった綱に仕上がった。この時ほど頼母しい「綱打っちや」と褒められ人生意気に感じたことはない。
敵々綱が打ちあがったところで本綱造りに取りかかる。本綱造り程見事な手際 よさはない。各々勝手に動き出し、示し合わせたかのように数人のグループに分かれ、喜々として励む。
綱を持ち運ぶグループ、幾本もの綱を束ねて木槌で打ち締め同を仕上げるグル ープ、手綱(ていんな)の取り付けと長さを測るのに余念のないグループ、カニチ綱を巻き込むグループ、こうして大蛸綱は能率よく仕上がっていった。
最後に全員で異状の有無を点検し、ササクレた藻等を鎌できれいに刈り取り完 了。あとは午後の本番を待つだけである。
各人家に帰りその日のための滋養食を十分に摂り、休養して出陣に備えた。
綱引ち歌
綱引き場では、東西の婦女たちが相対時して、次のような互いに罵り合いの歌を唄いながら乱舞する。
-今日やわった島ぬ綱引でもぬ
西東(いりあがりぬ)二才達(にーせーた一)ちばてくいりよ
-かりゆしぬ綱よキッチャキ、ヒッチャキねんごとうに
今日ぬ綱引ちしまちたぼり
-綱引ちになりば朝から肝(ちんワサワサとう「六月真夏(まなち)ぬ署(あち)さんウツトゥバスンドヤ
綱引きに出(ん)じてい綱持たん人や「わった島ぬ人やあらん追い出ささりんど
-平敷屋ぬタク綱や音から美(つ)ら綱ど
西東ぬアングワ達(た)舞(も)いぬ美(つ)らさま
-東(西)ぬ美(きよ)ら若衆(わかしう)負かちくよ美ら若衆
今年綱負かち嬉(うり)ささびら
-引ち来ら引ちく 寄てい来らゆていくう
島ぬ真中や行逢どこる
- 東(西)ぬ若衆ぬ衣や大島ウーぬ黒ヤンザイ
東(西)若衆ぬ衣や アカラフタラ
-東(西)若衆ぬンバイヒイライ米や二リガサカザ
東(西)若衆ぬンバイ米ぬなかぐ
-東ぬ二才小達や上原屋かい嬢喰えが
診喰てい来るえまや綱け負きてい
-東(西)ぬ狭い道やギチチぬ花臭さ
東(西)ぬ人道や蘭ぬ花香さ
-東(西)ぬ嫁なとていひじぐわ芋掘らいか
東(西)嫁なとてい大芋掘らな
-綱ん勝ち負かち舞いん勝ち負かち
後る軽がるとう戻る嬉さ
-綱や負きたしがヤーサイモーやまかちゃんど
互にかながなとう戻る嬉さ
-綱引かんまどうやあんかなさやしが
あねる綱引ちょていわ肝かわてい 肝変わてい
呉ゆな東(西)なーらびた
(以上、東門マサ子さんと西野ハリルさんの提供による)
-東(西)嫁なとて東(西)ぬが勢しゆーや
あとんかいこんながらち泥水くんのませ
-東(西)にいせー小達や手じくんばんしど習る
東(西)二才小達や踊り習い
-綱や負けてん
舞いる可笑さやイヤッサ、イヤッサ
-東(西)アン小たや仕事しみれ
にいぶいダラダラ男見しれ
ヘンサー小さみ飛ばし小ささみ
(以上、村誌から抜粋)
庭の男衆の激しいヤーサイは止むことを知らず渦潮の如く起こっては崩れ、崩れてはまた繰り返す。今や場内は興奮の堆鳩と化し、やがて気運も最高潮に達したころ、
長老格の松明持ちたちが優劣のつかない双方の中央に松明をふりおろすと、ようやく双方とも退きはじめ、それを合図に鉦鼓も銅鐸も緩やかなテンポにかわり、いよいよ綱引きに移るのである。
機も熟し、サアーの掛け声と共に鍛綱が高だかと持ちあがり、所定の位置まで寄せ合う。
「ユシレーユシうレー」の掛け声で寄せ合うが仲々甘くいかない。漸く寄せ合ったとうーんなころで輪の小さい雄綱の力ニチを立てる。
その上から輪の大きいみーんな雌綱のカニチを覆い被せる。
そこへ「カニチ棒」を通して両綱とも引き合う。このカニチを繋ぐことを「カニチちづん」といい、これがまた容易でない。
それは双方とも味方に有利に繋ごうとするからで、それが相容れられないとき問着が起きた。そんなとき相手陣営の者を綱の上から放り投げるという武勇伝が生まれたりした。
村々の綱引
きには武勇伝はっきもののようであった。
ようやくカニチを繋がれた綱は双方の綱頭たちの合図によって引かれた。サッサッサの掛け声と共に鉦鼓や銅鐸、太鼓が狂ったように激しく打鳴らされ、
蛸綱は勢よく波うつ。まるで生命を得た大蛸ていんなのように八つの手綱がうねり、そして展がる。
それは正に壮絶な大蛸の戦いを紡彿させた。
綱引きの勝敗は一遍に決まることはごく稀なことである。大抵は一進一退を繰り返して決まることが多い。従って気力の勝負といってよい。少しでも気を抜くと忽ち力の均衡が崩れ、ずるずるとひかれる。
それまで上下に揺れていた蛸綱もゆれが小さくなり、定位置からずるずる引かれる。
勢のあった手綱も徐々に潤む。勢いづいた方の手綱は大きく波うち手綱が展がる。
こうして天地を揺るがすような鳴響と変化に富んだ綱引きこそ平敷屋大蛸綱の醍醐味といえよう。
二回にわたり死力を尽くした綱引きの後には悲喜交々の光景が展開された。
勝ち誇って勝ち関の歓声と共に綱が宙に舞い、欣喜雀躍した女たちが踊りくるう。片や厳然たる劣敗にただ荘然自失の状態で綱に座り込み、じっと屈辱に堪える男たち、さしもの猛者たちもこのときは隣欄の情を禁じ得なかった。
こうして明暗を分けた厳しい勝負は正に人生ドラマの縮図であった。やがて気を取りなおした男たちは、破れたとはいえ、流石百戦錬磨のつわものたちである。
悪広れることなく大綱のカ二チを高々と差しあげ、捲土重来を期して堂々と退場する様は天晴であった。こうして震天動地の大綱引きも終わり平敷屋ま一には夜のとばりがおり滅入るような寂蓼感が辺りを占める。
「そこへあすの村人たちを祝福するかのように旧暦六月十四日の宵の月が東天より晃々と差しこんでいた。
綱引きに使用された道具や役目
綱引きには旗頭はつきもので常にその陣営の先頭に位置した。
平敷屋の旗頭は灯籠は取りつけなず頭の部分には長さ約1メートルの木製の剣や産 刀に模したものが取りっけられ、剣は雄綱、薙刀は雌綱と決まっていた。
旗一の下地は概ね紫色で旗の構図は猛虎の雄姿が鮮かに染め抜かれていた。
頭と旗の間には花形の断士が放射状に広がり、道ズネの場合上下に揺れる様は 壮観であった。
松明
平敷屋では松明(て一)とよんでいる。
真竹を握り易い太さに束ねてもち、合図、照明、士気の鼓舞の外、綱引場の整理、警戒、「ヤーサイ(両陣営の男衆が気勢をあげる 示威行為)」で双方がなかなか分離しないときも松明持ちの役目であった。
またヤーサイで力を入れない者は容赦なく松明のお見舞いを受けた。この松明持ちは場内では大事な役目であり長老格があたった。
「楽隊」楽隊は12歳から14歳までの少年組である。その組織は鉦鼓打ち2名、銅鐸打ち2名、太鼓打ち2名、法螺貝吹き1名をもって編成され、たえず旗頭と一体となって行動した。
鉦鼓には雌雄があって音も随分異なっていた。
雌証鼓は軽快な音がしたし、雄 鉦鼓は重厚な響きがした。 銅鐸打も大事な役目であった。これも雌雄があっ て、雌証は薄く雄証より梢大きかった。
適当にうてばよい響きがしたが、強く打ちすぎると割れたような音がした。
また雄証は小さいが肉が厚く打っと振動が手に伝わりコーンと長く重厚な響きがした。これらの銅鍵の音は大きくいよいよ綱引き気分をかきたてた。
法螺貝
法螺貝吹きも大切な役目であった。 法螺貝は大形の巻き貝で、小さく巻いた部分に穴をあけラッパのように吹くと 大きな音が鳴響き法螺貝の音は大事前の緊張感をかきたてた。
勝負を要する 行事には欠かせない道具の一つであった。
昔から合戦や城攻めの際には法螺貝が吹き鳴らされ、それを合図に我れ先にと 「先陣を競ったと伝えられている。
楽
その他綱引場で吹き鳴らされるガクがあった。ガクはチャラメルよりやや大きく元々鋼製か鎮録製であった。吹奏部分に麦のシベを取り付けて吹く。
ガクの音は他の楽器が勇壮で躍動的であるのに対し、沈着、冷静、自つ理性 取り戻させるのに効果的な響きがあった。だからヤーサイの後や綱を引き終わ ったあとによく吹き鳴らされた。
出陣
午後になると大綱の控所より出陣の触れ太鼓が打ち鳴らされた。満を持して待機していた男たちは、家のものを急き立てながら一足先に素飛んでいく。控所 には既に大方の連中が武者震いしながら待ち構えていた。
暫くして人数が揃ったところで出陣の太鼓が打ち鳴らされ、これに呼応して証鼓や銅鍵も打ち鳴らされ、サーの歓声と共に大綱が担ぎあげられ、平敷屋ま一 めざして道ズネー(デモンストレーション)が始まる。
勇壮な旗頭を先頭に楽隊の少年隊が先陣を切って行進する。きょうの打楽器は 本番とあって一段と高らかに鳴り響く。
続いて大綱が堂々の行進をする。 若手の精鋭たちはカニチを頭上高く捧げ持ち、威風堂々四辺をはらう。行進が 道路のあじま(十字路)に差しかかると鉦鼓や銅鍵が急わしく一段と大きく打ち 鳴らされ、カニチ綱の若者たちがこれに呼応してカ二手綱を天高く舞わせる。 また力自慢の旗頭持ちは、このときとばかり澤身の力で旗頭を舞わせ実に壮観である。
綱引き場の状況
両陣営の大蛸綱が平敷屋ま―へ堂々入場するや綱のうねりが大きく勢いを増し、 詰め掛けた近郷の観衆をも奮い立たせた。
先に入った綱上には数名の配下を従えた若按司姿も凛々しい若衆一少年一が兜 を被り、きりっと緒を締め東を象徴する「剣」を八双に構え威風堂々の行進をすれば、続いて西の綱上には、これまた数名の配下を擁する紅型衣装も艶やか な姫姿(あでひめ)の初々しい若衆一女装の少年一が西を象徴する「薙刀」を頭上 高く真横に構え、キッと前面を見据えた姿は言し難い気品と威厳にみち、この綱ひきを一層引き立てた。
こうして示威行進の続く場内は鳴響と指笛で喧騒を極め、興奮冷めやらぬ男たちはそれに飽き足らず陣内に綱を置くが早いか直ちに「ヤーサイ」を挑んだ。
双方とも負けじと広場の中央で激しくぶつかり合う。「ケレレンケンケンケレ レンケンケン」と早撃ちの鉦鼓がけたたましく鳴り響き、それに会わせるかの ように「サッサッサ」の掛け声も勇ましく「ヤーサイ」は渦巻きながら外へと
押しながされる。激しいぶつかり合いの熱気は場内外を包んだ。 その脇では男衆に劣らぬ西東の女たちが綱引き歌を歌いながら、地を踏み鳴ら して牽制しあう。やがて昂奮した女たちは「ヤーサイ」を繰り展げていた。